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沖縄の勝連城跡からローマコイン 海上交易で流入か
http://www.asahi.com/articles/ASJ9T4DF9J9TTLZU001.html
ローマ帝国のコインが沖縄県の勝連(かつれん)城跡で出土したと、同県うるま市教育委員会が26日、発表した。国内の遺跡からは初の出土で、14~15世紀の海上交易を介して流入した可能性があるという。
出土したコインは10枚。うち4枚に皇帝らしい顔やローマの文字が刻印されており、4世紀のローマコインとみられる。直径1・6~2センチでいずれも銅製。中国陶磁器を含む地層(14~15世紀)などから見つかった。1点はアラビア文字があり、17世紀製造のオスマントルコ帝国のコインとみられる。残る5点は分析中。
勝連城は世界遺産にも登録されており、12~13世紀ごろの築造。この地域で活躍した阿麻和利(あまわり)の居城とされ、15世紀の廃絶後もしばらく利用されたとされる。同市教委では整備事業の一環として発掘調査を進めていた。
沖縄では14世紀から16世紀にかけて海上中継貿易が栄えた。琉球王国は中国や東南アジアとも交流し、勝連城でも中国陶磁器が見つかっている。同教委は 「西アジアや西洋を含めた世界史研究に寄与する成果。勝連城にかかわる人物が、西洋世界との接点をもつアジア世界のどこかで入手したのではないか」。オス マン帝国のコインについては後世この地へもたらされたのではないかとみている。
東西交流史に詳しい早稲田大中央ユーラシア歴史文化研究所の四日市康博さんは「ローマのコインは東南アジアでも出ており、ここを経由して流入したと考えられるが、後世の混入の可能性も含めて慎重に精査してほしい」と話している。(編集委員・中村俊介)
温故知神?福音は東方世界へ(62)大秦景教流行中国碑の現代訳と拓本7 川口一彦
http://www.christiantoday.co.jp/articles/22866/20161222/onko-chishin-62.htm
<本文と拓本>32文字(169+32=201)
物 以託宗(或いは物を指して宗と託し=物体を作って宗教とし)、或空有以淪二(或いは空有の二に淪ち)、或?祀以邀福(或いは祈祷で福を求め)、或伐善以矯 人(或いは善行を伐として人はおごる)。智慮營營(知慮は営営=激しく求める)、恩情役役(恩情は役役=労する)、茫然無得(茫然で得るなく)
<現代訳>
物を神として宗教を作り、空有(仏教宗派の教義的対立)の争いで堕落し、祈祷によって幸福を求め、善行を手柄としておごり、他者を見下します。知恵は貪り求め、心は労苦し、茫然として得ることなく
<解説>
この箇所は、人の堕落後の創造主への反逆としての人の欲望の姿を描いています。
さて、「ローマ帝国」のウィキペで「大秦」と
でてきたわけだが。。。
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「お前は支那地区の内通者だ!!!!」⇒こちら
「大秦=ローマ帝国」
去年の10/16の記事でつね。
・最終更新日:2016年09月16日~2016年10月16日
→10件
・最終更新日:2016年10月16日~2016年11月16日
→32件
下等生物ホモぱよペドゾンビキム、通称クズ野郎は
うちが「大秦=ローマ」と書いた途端、
「ユダヤガー!」と喚き出したわけでつね。
10/16の記事にあるように「大秦」といえば
「大秦景教流行中国碑」で「ネストリウス派」。
ネストリウス派といえば。。。
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【毛唐通信】迷惑な毛唐のリアル分析(後篇)⇒こちら
チンギスハーン。
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【大型記事】ハーン(前篇)⇒こちら
モンゴルといえばマニ教。
マニ教といえばユダヤ教。
モンゴルではローマ帝国から邪教認定された
ユダヤ教とネストリウス派が同居してたわけ
でつね。
で、ネストリウス派とツギハギされたのが
聖徳太子。
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http://tenkomoriwotisure.blog.fc2.com/blog-entry-4366.html⇒こちら
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同じ穴の貉を敵と喚き偽装するクズ野郎⇒こちら
久米邦武-Wikipedia
1888年(明治21年)、帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任、重野安繹らとともに修史事業に関与する。在職中の1892年(明治25年)、田口卯吉の勧めにより雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題となり、両職を辞任した(久米邦武筆禍事件)。1895年(明治28年)、大隈重信の招きで東京専門学校(現・早稲田大学)に転じ、1922年(大正11年)に退職するまで、歴史学者として日本古代史や古文書学を講じた。1931年(昭和6年)、老衰のため死去。
→反神道
→大隈重信@福沢諭吉
「仏教を重用」「厩戸」だけで聖徳太子と
ネストリウス派をツギハギしたのは
反神道で元寇サマナ。
で、聖徳太子といえば秦氏。
「秦氏はアノ民族ニダ!」という話はちょっと
検索すれば大量に出てくるわけだが。。。
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【新年特集】ハーン2 (2)⇒こちら
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キリスト@日本人⇒こちら
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空海フラグならぬエ下劣フラグ⇒こちら
秦氏=アノ民族と喚き、日ユ同祖論を吹聴してる
のはエ下劣サマナのネストリウス派。
真言宗とネストリウス派をツギハギしたのは
エ下劣サマナ。
で、ネストリウス派=可汗一味。
大秦がローマ帝国を指してるなら、秦氏は人種は
ともかくとして、ローマ帝国人のはずでつね。
秦氏-Wikipedia
『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが、その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって[2]、真実性には疑問が呈せられており[3]、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。
秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)。
辰韓-Wikipedia
朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。
『後漢書』巻85辰韓伝では、以下のように記載される。
耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割東界地與之。其名國為邦,弓?弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。
〈辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉
新羅-Wikipedia
4世紀後半から6世紀前半にかけての慶州新羅古墳からは、金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する。こうした6世紀前半以前の新羅出土のガラス器にローマ系統の技法のものが極端に多いこ とに注目して、ガラス工芸史の研究者の由水常雄は、新羅は北方の遊牧民経由でローマ帝国の文化を受け入れていた古代国家であるとする説を唱えた [122]。この頃の新羅は中国文化よりも北方の遊牧騎馬民族(匈奴・鮮卑など)の影響が強かったことを示している。また、5世紀後半から6世紀半ばに前 方後円墳の築造が盛んになり、勾玉等の装飾品と共に日本から人・文化が流入した。
稲飯命-Wikipedia
記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では「稻飯命」や「彦稻飯命」、『古事記』では「稻氷命」と表記される。
神武天皇(初代天皇)の兄である。
『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
右京皇別 新良貴 - 彦波瀲武??草葺不合尊の男の稲飯命の後。続けて「是出於新良國。即為國主。稻飯命出於新羅國王者祖合」[1]と記し、稲飯命は新羅王の祖であると伝える。
秦-Wikipedia
紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子(中国語版)が馬の生産を行い、功績を挙げたので?の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の張家川回族自治県一帯)であったという。伝説上では?姓は帝舜の臣伯益が賜ったとされている。それ以前の?氏は魯に居住していたとされる。
紀元前822年に荘公が西垂(現眉県)の大夫になった。
googleMap:張家川回族自治県
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「お前は支那地区の内通者だ!!!!」⇒こちら
ローマ帝国成立前後に支那地区に流れてきた
大秦人が建国した秦から半島に逃げて辰韓を
建国するも、神武天皇の兄の末裔が建国した
新羅に負けて日本に逃げてきた秦の始皇帝の
末裔・秦氏が仕えたのが
日本の天皇。
つまり、天皇こそがアイネイアースやユーピテル
に比定されるべき真の神ということなんでつね。
ハプスブルク、そしてその閨閥であるエ下劣が、
ローマ帝国で邪教認定されたネストリウス派や
ローマ帝国の属州民であったアノ民族と
日本や皇室をツギハギするのは、ハプスブルクが
ウェヌスの末裔と吹聴してる大ウソを誤魔化す為
なんでつね。
我々は結束して真の神である天皇を支え、
ニセの神であるハプスブルクを打倒しなければ
ならないんでつね。
わかり松。
( ゜∀゜)・∵ブハ八ノヽ/ \!!!!!!!!
<おまけ>
皆さん「おまえアジア人だろ?」って言われたら
「支那地区や東南アジアと一緒にすんな!」
と思うでせうか?
いけませんねぇ。
むしろ「アジア」という言葉は日本「だけ」を
指しているのに。
アジア-Wikipedia
紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけての頃、古代メソポタミアのアッシリア人がエーゲ海の東を「アス」 asu (「東」「日の出」の意)、西を「エレブ」 ereb (「西」「日没」の意)と呼称したことにはじまるといわれ、のちに「アス」にラテン語の接尾辞「イア」 ia がついて Asia の語が生まれたといわれる。
asu+ia=日出づる処の国
アス=明日
日本人こそアジア人であり、それ以外の連中は
アジア人じゃないんでつね。
わかり松。
( ゜∀゜)・∵ブハ八ノヽ/ \!!!!!!!!