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帝国陸軍は愚かで非合理だからアメリカと戦争したのか?
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180816-00010002-wedge-soci
「8月や、6日、9日、15日」という詠み人知らずの歌がある。広島に原爆が落とされた8月6日、続いて9日に長崎、そして15日無条件降伏(ポツダム宣言の受諾)である。
帝国陸軍は愚かで非合理だからアメリカと戦争したのか?
『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書)。牧野邦昭。1977年生まれ。東京大学経済学部卒業。京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。現在、摂南大学経済学部准教授。専攻は近代日本経済思想史。
8月15日には、陸海軍を中心に戦争時の資料が大量に焼かれた。今でも「大本営発表」というと悪い意味で使われるように、戦時中は負けているにもかかわらず、勝っているような発表がされ、負けてしまえば、責任逃れのために資料を焼いた(公文書を粗末に扱うという官僚の悪弊は今にも引き継がれているということだろうか……)。
このように昭和の軍部、特に帝国陸軍は、非合理主義で、極端な精神主義に走った組織という認識が一般的だ。
ところがそんな陸軍が、開戦前に日本を含め、アメリカ、イギリス、ドイツなどの主要国の「経済抗戦力」について調査を行っていたという。陸軍主計中佐・秋丸次朗をリーダーとして調査組織を設置した(通称「秋丸機関」)。
秋丸機関の調査によって、日米の経済力の差は「20:1」にもおよぶことが判明した。そして、この報告書は陸軍にとって都合の悪いものであるために「焼却処分」された――。
非合理な陸軍だから、さもありなんということで、戦後長らくこの通説が信じられてきた。
しかし、これについて「本当だろうか?」と、問題提起をしたのが『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書)を上梓した、牧野邦昭摂南大学経済学部准教授だ。
「通説」打破への突破口となったのは、牧野氏がネット上のデータベースに、焼却処分されたはずの秋丸機関の報告書がいくつか残っていることを発見したことだ。
「2008年、京大の院生のときに、京都府立図書館のデータベース(OPAC)で、秋丸機関の別称である『陸軍省主計課別班』を検索してみました。すると、関連資料が出てきたのです。その後、京大、東大などの図書館のデータベースにも資料があることが確認できました」
秋丸機関の研究員の一人で、「(秋丸機関の)報告書は陸軍の意向に沿わないので、焼却処分された」と発言していた有沢広巳・東京大学経済学部教授が1989年に亡くなり、その蔵書が遺品として東大経済学部図書館に寄贈された際、その中から報告書の一部である『英米合作経済抗戦力調査』(其一)が見つかったことは既に知られていた。
しかしそれ以外の資料はほとんど見つかっていなかったが、牧野氏は多くの秋丸機関の資料をネット上のデータベースで発見する。
「2013年にはGoogle Booksで秋丸の発言が掲載された報告書を見つけました。そして、(国立情報学研究所が運営し、全国の大学の蔵書などを調べることができる)CiNii(サイニイ)Booksで、『独逸経済抗戦力調査』が静岡大学図書館にあること発見しました」
さらに牧野氏は、『英米合作経済抗戦力調査』(其二)を、古書データベース「日本の古本屋」で発見し、購入した(その後、東大経済学部資料室に寄贈)。
「こうした発見ができたのは、情報がデータ化されたからです。今後は、AI(人工知能)が、新しい資料を発見するということも起きてくるかもしれません」
焼却処分されたというものがなぜあるのか? 牧野氏の疑問は深まった。しかし、報告書の内容を読み込んでいくと、英米の経済抗戦力の大きさを示してはいるが、全体としては、当時の論壇や政府機関、シンクタンクで言われていることと変わらない内容だった。そして、当時の雑誌などに、秋丸機関の研究員が報告書と同様の内容を執筆、発言していることが分かった。
では、秋丸機関の「報告書」の内容とはどのようなものなのか。
勝ち目が少ないことを指摘していた報告書
マクロ分析された『英米合作経済抗戦力調査』(1)では、
・英米が合作すれば、米国の供給で英国の供給不足を補うことができる。
・英米の合作は、第三国に対して70億ドル余りの軍需資材の供給能力になる。
・ただし、最大の供給能力の発揮には開戦後1年~1年半の時間が必要。
・英国船舶の月平均50万トン以上の撃沈は、米国の対英援助を無効にする。
ミクロ分析された『英米』(2)では、
・英国の弱点として、島国であるために食料や資源を遠隔地から船舶で輸送しなければならない。
『独逸経済抗戦力調査』では、
・ドイツの経済抗戦力は1941年がピークで、その後低下する。
・英米長期戦に頼るにはソ連の生産能力を利用しなければならない。
・食料不足が表面化しており、ウクライナからの供給が必要。
・石油も不足しており、ルーマニアからの供給だけでは足りず、ソ連のバクー油田からの供給が必要。
しかし、ドイツがソ連の各種能力を利用するには、ソ連との決戦を短期で終了させる必要があり、長期化した場合は、「対英米長期戦遂行は全く不可能」となると、悲観的に述べられている。
これに加えて、日本が行動すべき指針も示している。
「東亜」は欧州に不足しているタングステン、錫、ゴムなどを供給することができるため、日本はシンガポールを占領し、インド洋連絡を行う必要がある。
独ソ開戦以降、ソ連と英米の提携が強化されるため、日本は包囲網突破の道を南に求めるべし。
北における消耗戦を避け、南において生産戦争、資源戦争を遂行すべし。
報告書全体としての結論をまとめると、「長期戦になればアメリカの経済動員力により日本もドイツも勝利の機会はない」、ただし「独ソ戦が短期で終われば、イギリスには勝てるかもしれない」というものだ。そして、日本がなすべきこととしては、「北進(対ソ戦)」ではなく、資源獲得のチャンスがある「南進(対英米)」すべきとされた。
こうした情報は当時、機密でもなんでもなかったのである。むしろ「常識」とも言えるものだった。それにもかからず「なぜ、開戦を決断したのか?」。そのとき、思い至ったのが行動経済学における「プロスペクト理論」だった。
人間は、損失を被る場合にはリスク愛好的(追及的)な行動をとる
本書のなかで、牧野氏はこんな事例を示している。
2つの選択肢のうちどちらが望ましいか。
(a) 確実に3000円支払わなければならない。
(b) 8割の確率で4000円支払わなければならないが、2割の確率で1円も支払わなくてよい。
(b)の損失の期待値はマイナス3200円(=マイナス4000円×0.8+0円×0.2円)で、(a)よりも損失が大きくなる。人が合理的に動けば、(a)を選ぶ。しかし、実験では(b)を選ぶ人が多い。つまり、「人間は、損失を被る場合にはリスク愛好的(追及的)な行動をとる」のだ。
これを証明したのが「プロスペクト理論」で、人は財が増えるのと、減るのとでは、減る場合のほうに価値を置く。そのため、損失が出る場合は、その損失を小さくすることを望む。つまり、確率は低くても、損失が0円になる可能性がある(b)を人は魅力的に感じてしまうということだ。
この(a)と(b)の状況は、昭和16年(1941年)に、日本が置かれた状況と同じだと、牧野氏は指摘する。
(A)昭和16年8月以降はアメリカの資金凍結・石油禁輸措置により日本の国力は弱っており、開戦しない場合、2~3年後には、確実に「ジリ貧」になり、戦わずして屈服する。
(B)国力の強大なアメリカを敵に回して戦うことは非常に高い確率で日本の致命的な敗北を招く(ドカ貧)。しかし非常に低い確率ではあるが、ドイツがソ連に短期で勝利し、英米間の海上輸送を寸断し、日本が東南アジアを占領して資源を獲得して国力を強化してイギリスが屈服すれば、アメリカの戦争準備は間に合わず、講和に応じるかもしれない。
「プロスペクト理論に基づけば、現状維持よりも開戦した方がまだわずかながら可能性があるということになるのです」
牧野氏は「『開戦すれば高い確率で日本は敗北する』という指摘自体が、逆に『だからこそ低い確率に賭けてリスクを取っても開戦しなければならない』という意思決定の材料になってしまった」と指摘する。
これが「なぜ正確な情報があったにもかかわらず、開戦にいたったのか?」という疑問に対する牧野氏の答えだ。
秋丸機関は第3の選択肢を出すことができた
こうした状況は現代の政治や、ビジネスのなかでも起こりうる。上手に乗り切るために必要なことは何なのか。牧野氏はこう話す。
「視野狭窄に陥らないようにして、選択肢を広めに持つということが大事だと思います」
そうすると、日米開戦時にこのような大局的な視点に立って物事を判断できる人材がいれば、日米開戦は回避できたのだろうか。牧野氏は、秋丸機関は第3の選択肢を出すことができる存在だったと考えている。
満州時代に、後に首相となる岸信介、日産の創業者である鮎川義介などと対等に渡り合い、共に仕事をして「関東軍参謀に秋丸参謀あり」と謳われた秋丸主計中佐、そして東大教授の有沢広巳、慶應大教授で陸軍主計少尉でもあった武村忠雄など、優秀な人材が集結していた。
「もし、秋丸機関に『3年後でもアメリカと勝負できる国力と戦力を保持できるプラン』を出すように示唆する人物が陸軍にいれば、秋丸機関はそのプランを出すことができたと思います」
開戦を回避していたら、その後の日本はどうなり、いま、どうなっていたのだろうか……とも、考えてしまうが、それは本書の主題ではない。
現在まで、かつての日米(英)戦争は、非合理的な陸軍が無謀な戦争をはじめたという認識が一般化している(もちろん、帝国陸軍は様々な過ちを犯した)。ただ、「ストーリーとして分かりやすいから、戦後こうした考えが浸透したのだと思います」と、牧野氏が指摘するように「陸軍悪玉論」にしてしまうと、思考はそこでストップしてしまう。
牧野氏は、本書の冒頭で政治学者・丸山眞男の言葉を引用している。
「陸軍や海軍というのは、もともと組織的に頭のいいのがいたというせいもあるけれど、よほど合理的だったのではないか」
決して狂信的な人たちではなく、むしろ合理的な人たちが「正しい情報があったはずなのに、なぜこのような選択をしたのか?」。この問いは、現代にも通じるのである。
海軍歴史の謎 なぜ「大和」はレイテ湾に背を向け北上したか
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180815-00000010-pseven-life&p=1
戦艦「大和」の「副砲長」の任に就いていた深井俊之助氏は、大正3年生まれの104歳。部屋の中を杖もつかずに歩き、座る姿勢は背筋がピンと伸び、驚くべき記憶力で理路整然と語る。
深井氏は戦前、海軍の通信技術者だった父親の影響から海軍兵学校に入り、終戦まで戦艦乗組員として活動した。そして、いくつかの艦を乗り継ぎ、昭和19年3月、少佐として世界最大と謳われた戦艦「大和」の副砲長を命じられた。
「昭和19年10月25日の朝、フィリピンのレイテ島に向かう途上で米空母部隊を発見し、戦闘になったとき、駆逐艦が突進してきて煙幕を張り始めた。こういう補助艦艇をつぶして、目標が見えるようにするのが私の仕事でした」(深井氏、以下「」内同)
レイテ島は南方からの石油の中継地で、昭和19年10月に米軍は上陸を開始していた。レイテ湾の攻略では、小澤治三郎中将が指揮する囮艦隊が、ハルゼー提督の米空母部隊を外洋におびき出し、その隙に「大和」を含む栗田健男中将が指揮する艦隊が南下してレイテ湾に突入する作戦だった。
「囮艦隊の陽動が成功し、ハルゼーの空母部隊は囮艦隊の背後に日本の有力艦隊がいると誤認し、全軍で追いかけていた。わが艦隊は10月25日の昼にはレイテ湾まで1時間半の距離に近づいたのです。
ところが、ここで『大和』は反転し、レイテ湾に背を向けて北上しはじめたんですね。これは海軍の歴史でも“最大の謎”とされている事件です。私は艦橋に行き、上官に『なぜ北進を続けているのですか?』と問い糾したんですが、『若い者は黙っておれ!』と追い出された。
私はこの作戦に勝機は十分あると考えていました。「大和」の主砲は60cm厚の防御鋼板で覆われ、船体には浮力をつけるバルジも設置されていた。だから、レイテ湾内で座礁させても、他の艦と違って傾いたりしないんです。傾くと主砲を撃てなくなりますが、『大和』なら撃てた。
座礁させれば米艦載機から猛爆を受け、我々は吹っ飛ばされ生きていないけど、『大和』の主砲は防御鋼板で守られ、艦載機に積める程度の爆弾では破れない。『大和』には世界一の主砲があったからこそ、この作戦には勝機があった。
海岸にうろうろしていた6万~7万人の上陸部隊に撃ち込んで、運搬船も沈めてしまえば、上陸軍は孤立し、補給を絶たれ、白旗を揚げて終わりですよ。これだけの数の捕虜カードをもって停戦協定に臨めば、有利な停戦に持ち込める。私はそこまで考えていた。『大和』にはそれを実現する力があったのに、試さずに逃げ帰ったのが今でも悔しいんですよ。私は上官に楯突いたことへの懲罰人事で、レイテからの帰国後、『大和』を降ろされました」(深井氏)
その後「大和」は鹿児島・坊ノ岬沖で撃沈され、乗員2740人が戦死した。
「日本は戦って負けたけれども、戦ったおかげで、米、英、蘭に植民地支配され、奴隷にされていたアジアの国々が独立できたんです。
私は少尉だったころ、ロサンゼルスに油を積みに行ったことがありますが、レストランに入ろうとしたら入店を断られたんです。『ホワイトオンリー』と書いてあった。軍服を着た海軍士官でも『イエローはダメだ。チャイニーズタウンに行け』と。アジア人に対する差別が厳然とあった。
あのとき戦ったから、差別をなくすことができたんです。その意味で、世界に貢献したという気持ちは、今でもあります」(深井氏)
溜まりに溜まってたドニー関係のネタを4
連続シリーズでようやく処理して、新カテ
ゴリーの長杉る記事を処理しませう。
よくいるのが結果論だけで「日本軍は無能
ニダ!」と喚くチョンゾエとかハシゲとか尾
木カマみたいなヤツ(縛w
日本軍にいたのは有能な軍人と、肝心なと
ころで大和を迂回させるような内部崩壊を
画策したなりすまし寄生虫だけでつね。
さて、よく戦争責任戦争責任と喚くクズ共
がいるが、戦争責任について考えてみませ
う。
日本は可汗一味によって戦争以外取るべき
策がない状態に追い込まれたのはこれまで
書いてきた通り。
読んだことない読者はこのブログの第一話
(FC2版の一番最初の記事)を読んでみ
ませう。
もしそこで屈してたらどうなったでせうか?
毛唐共が日本に要求したのは満州や東南ア
ジアで獲得した勢力圏を放棄しろというこ
と。
なぜ日本が勢力圏を獲得したかといえば、
日本本土の国境線まで毛唐の植民地が迫れ
ば安全保障上の脅威になるからでつね。
「日本が進出したころにはもう植民地競争
は終わってたニダ!」とか喚くヤツがいる
が、現に義和団の乱後、毛唐は支那地区の
植民地化が進み、それは満州事変直前まで
続いてたわけでつね。
九カ国条約-Wikipedia
1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約。なお、9か国条約と表記することもある。中国の関税自主権を拡大した。
この条約は、中国に関する条約であり、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日本の中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図ったものである。日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。
これ以後、国際社会はワシントン体制と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。
九カ国条約の根本的誤謬は、中華民国の国境を明確に定めないで、その領土保全を認め、清朝に忠誠を誓ったモンゴル人、満洲人、チベット人、回教徒、トルキスタン人らの種族がその独立権を、漢民族の共和国に譲渡したものと推定したことである。
また、九カ国には中国に強大な影響力を及ぼし得るソ連が含まれておらず、ソ連は、1924年(大正13年)には、外蒙古を中国から独立させてその支配下におき、また国民党に多大の援助を与えるなど、条約に縛られず自由に活動し得た。その結果、同条約は日本に非常に不利となった。
テメェらの植民地化を維持しながら、日本
による支那地区での勢力圏拡大の妨害を画
策していたわけで、植民地競争が終わって
たなどという戯言は大ウソなんでつよ。
日本が可汗一味の植民地となった支那地区
とダメリカに挟まれることになれば、日本
の安全保障は崩壊、日本も可汗一味の植民
地。
戦後GHQ共がやったbcによる日本の汚
鮮や可汗一味システムによるアメリカから
の搾取を見れば、屈した結果どうなるかは
火を見るより明らかでつね。
「暴走した軍部が悪いニダ!」と喚くこと
は日本が可汗一味の植民地になればよかっ
たと喚いてるに等しいわけでつね。
開戦は御前会議で裁下されたわけだが、も
し先帝陛下が可汗一味に屈する決断をした
らどうなったか。
一応戦争は回避されるが、戦後行われたよ
うな汚鮮が広まり、今まさに行われている
嫌bcのようなことが起き、その責任は誰
にあるんだ、国を打ったのは誰だ、という
ことになり、先帝陛下は最愛の日本国民か
ら糾弾されることになってたでせう。
そうなれば日本は分断でつね。
先帝陛下は、可汗一味と戦い世界の敵にな
ったとしても日本国民を捨てることなどで
きなかったんでつよ。
その判断のどこが間違えてるんでせうか?
皇室だけは安泰だったかもしれないが、そ
の代償として国民を可汗一味に従属させる
ことなど、民族浄化されることなど、とて
も選択することはできなかったんでつね。
先帝陛下に戦争責任などない、というのは
そういうことなんでつね。
戦後の歴史を俯瞰して見れば、日本の高度
経済成長や安全保障のためにアメリカを利
用し、アメリカはニクソンショックやプラ
ザ合意などで抵抗し、支那地区が日本のス
キームをパクったのが可汗一味システム、
ってことになるわけでつね。
支那地区が可汗一味システムに依存すれば
するほど支那地区は世界の悪者として吊し
上げられ、米支貿易戦争にまで至ったわけ
でつね。
こうして見ると、ほんとの勝者が誰なのか
一目瞭然でつね。
「ポツダム宣言を受諾しても岩屋系と組ん
で復興し、それをお茶屋・エ下劣が妨害し
てくれば矛先を支那地区に向けさせる」ぐ
らいの大まかな戦略は戦中に考え付いてい
ただろう、という推測はさほど飛躍しては
いないんじゃないでせうかね。
先人たちの尊い犠牲があったからこそ今日
のような繁栄を享受できる、そのことに何
一つ疑う余地はないんでつね。
わかり松。
( ゜∀゜)・∵ブハ八ノヽ/ \!!!!!!!!
終戦 性暴力 語り始めた女性たち
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_0815.html
終戦から73回目の夏を迎えました。日本人だけで310万人が犠牲になった先の大戦では、戦争が終わったあとも、女性たちに大きな苦しみをもたらしました。終戦直後、旧満州や朝鮮半島から祖国を目指し、引き揚げてきた女性たち。その中には、性的暴行を受けて妊娠したまま日本にたどり着き、当時違法だった中絶手術をひそかに受けた人も数多くいました。これまであまり伝えられてこなかった女性たちの苦しみを後世に伝えようと、語り始めた人たちがいます。(社会部記者 小林さやか)
水子供養祭に参列する女性
福岡県筑紫野市で毎年5月に行われている水子供養祭。かつてこの場所で、大陸からの引き揚げの途中、暴行を受け、妊娠した女性たちの中絶手術が行われていました。
ことしの供養祭に、特別の思いで参列した女性がいました。神奈川県から訪れた鈴木政子さん(83)です。
鈴木さんも72年前、旧満州から博多港に引き揚げてきました。当時11歳だった鈴木さん。引き揚げの途中で弟や妹4人を亡くし、みずからも飢えに苦しみました。
それだけでなく、幼かった鈴木さんが目撃したのは、ソ連兵から周囲の女性に加えられた性的暴行でした。
女性を連れて行き、5、6人で連姦する。皆の目の前で暴行は行われました。その女性の子どももいました。(鈴木さん)
大陸での性被害の実態
ソ連兵や現地の男性は、祖国に引き揚げようとする日本人女性に対し、性的暴行を繰り返しました。
女性の中には、暴行を受けた末に妊娠し、日本にたどり着いた女性も数多くいました。当時、富国強兵の施策のもと、中絶手術は原則違法。大きなおなかをかかえて故郷に戻ることはできないと、祖国を目前に海に身を投げた女性さえいたといいます。
国が命じた中絶手術
取材を進めると、国が秘密裏に中絶手術を指示していたと指摘する資料にたどり着きました。
九州大学の当時の医局長が、国から受けた指示の内容を記した文章が残されています。この中で、国の思惑は、ソ連兵の子どもの出産を水際で食い止めることにあったと指摘しています。
さらに、海外の研究者が発表したほかの論文(昭和28年)では、当時の厚生大臣や占領軍が関わったことも示唆されていました。
101歳の医師 初めての告白
国の指示で中絶手術に関わった医師が、初めて取材に応じてくれました。九州大学の産婦人科医だった昇勇夫さん(101)です。
昭和21年から翌年にかけて、佐賀県内の療養所で中絶手術を行ったと告白しました。昇さんは「国が負けておいて、犠牲になったのは女性でしょう。中絶が禁止されているのは承知のうえで、罪をかぶってでも女性たちを助けたいという気持ちが先にあった」と語りました。
当時は、手術に必要な器具や麻酔薬もなく、妊娠後期の女性の手術は困難をきわめたといいます。事実上、出産した赤ちゃんを殺すことに近い手術。
手術を受けた女性たちだけでなく、医師たちの心にも深い傷を残し、昇さんは、家族にさえこの事を話してきませんでした。
800人以上が手術か
九州大学のほかに、今のソウルにあった京城大学から引き揚げた医師たちも、人道的な観点から女性を助けたいと福岡県筑紫野市にあった施設で、中絶手術を行っていました。
二日市保養所
ある医師の調査では、手術を受けた女性は、合わせて少なくとも800人に上ると推定されています。当時のカルテなどはほとんど残されず、わずかな手がかりは医師たちの証言。
一方で、女性たちみずからが被害を語ることはなく、女性たちの本当の苦しみは、伝えられないまま埋もれようとしていました。
語り始めた女性
保養所の跡地で行われた水子供養祭に参列した鈴木政子さん。最近になって、かつて目撃した性的暴行について詳細に語るようになりました。
きっかけは、ともに引き揚げ、姉のように慕ってきたゆう子さん(仮名)からの告白でした。暴行を受け、この場所で中絶手術を受けたゆう子さん。亡くなる数年前に、長年隠し続けた性被害を、鈴木さんに打ち明けたといいます。
ゆう子さんは『私も言わなきゃね。言おう、もういいよね』と言いました。私は、それを聞いて『真実だから、書いて記録に残さなければならない』と思ったんです。(鈴木さん)
被害の事実を後世に
鈴木さんは、ゆう子さんから聞き取った内容を一冊の本にまとめました。暴行による望まない妊娠であっても、自分の体の中で育っていく命に愛着も覚える、葛藤。これまで語られてこなかった女性たちの心情を克明につづりました。
「きっと青い眼の子だろう」 「でも半分は私の血を受け継いで、こうして動いている」 「どうしたらいいのだろう」(本からの抜粋)
お腹の中の子は動くでしょ。それなのに抹殺しなければならない。強姦された子どもでも、自分の一部。半分は自分でしょ。だから自分を捨てるような感じだったのでしょう。(鈴木さん)
「耳の底に残っている赤ちゃんの産声」 「謝っても謝っても涙が止まらない」(本からの抜粋)
若い世代に伝えたい
鈴木さんは、ゆう子さんから譲り受けたこけし人形を、中絶した赤ちゃんを埋めたとされる場所に供えて祈りを捧げました。
ゆう子さんが「中絶した子どもの身代わりに」と生涯大切にしていたものです。
性被害を受け、戦後を生き抜くために、痛みに耐えて手術を受けた女性たち。さらに子どもの命を奪った罪悪感を抱え、何重もの苦しみを、胸の奥に抱え続けていたのです。
なかったことにはできない。戦争が原因でこんなことも起きるんです。こんな苦しみを味わった人がいたのよっていうことを多くの人たちに知ってほしいですね。(鈴木さん)
私が鈴木さんの貴重な証言をニュース番組の中で伝えたのはことし5月。その後、鈴木さんのもとには講演の依頼などが相次ぎ、若い世代に語る機会が増えたということです。「1つの歴史として若い世代が認識してくれた」 鈴木さんは手応えを感じているといいます。
女性たちは性被害について語ることはなく、被害の補償もありませんでした。戦争は、戦場に行った男性はもとより、一般市民にも凄惨(せいさん)な被害をもたらします。
先の大戦では、ソ連兵だけでなく、国内で進駐軍による性被害もありました。また、旧日本軍による現地女性への加害があったという証言も残されています。
こうした状況は、過去の話ではありません。ミャンマー軍によるロヒンギャの女性への性暴力、過激派組織IS=イスラミックステートによるものなど、世界の紛争現場では、今も女性が被害を受け続けています。
終戦から73年。戦争のない世の中を次世代の子どもたちに残すために、今ようやく語り始めた女性たちの声を受け止め、向き合っていかなければならないと強く感じています。
1日に何十人もの米兵と……! 歴史の闇に葬られた「日本の慰安婦」たち
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180730-00545792-shincho-soci
終戦から2週間足らずで慰安所第1号が開業
太平洋戦争終結から73年。戦争を知っている世代が絶える時も着々と近づいているが、歴史にはまだまだ埋もれた秘話がある。たとえば、日本にも「慰安婦」がいたという不都合な真実――。
終戦から2日後の8月17日、東久邇内閣が成立。最初の閣議後すぐに、国務大臣の近衛文麿は警視総監の坂信彌に対し、「日本の娘を守ってくれ」と依頼した。坂はすぐさま東京都料理飲食業組合の役員2名を呼びつけ、「特殊慰安施設協会」(通称RAA)の設立を指示。設立声明では「狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と謳った。(RAA協会沿革誌より)
「進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」という求人看板が銀座のど真ん中に立ち、8月27日には慰安所第1号として「小町園」が東京都大田区に開業。終戦から2週間足らずである。開業までのスピードも目覚ましかったが、規模も空前絶後だ。小町園を皮切りに、立川、調布、福生、北多摩、築地、人形町、向島などに次々と慰安所が開業、千人規模の慰安婦を募集する求人広告が新聞紙上を頻繁に賑わせた。5千人の女性が慰安婦として肉体を酷使したとされる。
集められた慰安婦たちは大部屋をカーテンなどで仕切っただけの場所で、1日に何十人もの米兵の相手をさせられた。60人という記録もある。数十分に1人とセックスした計算だ。当然、劣悪な環境下で性病にかかったり、腰が立たなくなったり、精神に異常を来す女性が続出。鉄道に飛び込んで自殺した19歳の女性もいた。慰安所では毎日血にまみれた洗濯物が風にひるがえっていたにちがいない。「日本の娘を守ってくれ」の結果が、この阿鼻叫喚の風景だったのである。
RAAをとりあげた小説『水曜日の凱歌』(乃南アサ著)にこんな一節がある。慰安婦たちと同居することになった14歳の少女の前で警察官に、ある慰安婦がこう絶叫するのだ。「日本の男ども! 誰もかれも、女のまたの間から生まれたくせに、その恩も忘れやがって、利用するときだけしやがって! 戦争中は『産めよ殖(ふ)やせよ』で、戦争に負けた途端に、今度は同じまたを外人どもに差し出せとは、何ていう節操のなさなんだっ!」。見てはいけないものを見てしまった多感な年頃の少女の気持ちを思うと切ない。
占領軍は1946年3月、兵士に性病が蔓延するのを怖れ、慰安所への立ち入りを禁止した。「民族の純潔」という美辞麗句のために売り飛ばされた上、今度は職を失った「新日本女性」たちは、街娼となって街の闇へと消えていったのであった。
終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180815-00056962-gendaibiz-bus_all
ようやく見えた「戦後ゼロ年」の真実
今年も8月15日がめぐってきた。だが、73年前の敗戦をめぐる記憶は日々確実に薄れている。
とりわけ記憶の劣化が著しいのは、敗戦直後の一年間、いわゆる「戦後ゼロ年」であろう。みじめな焼け跡暮らし、占領の屈辱、飢え、虚脱感、思い出したくもないヤミ買い。高度成長という威勢の良い華やかなサクセス・ストーリーの陰で、暗い役回りを押し付けられたせいかもしれない。
だがもっと本質的なことは、敗戦直後の時代には、その時代を経験した人であっても知ることのできなかった秘密がたくさんあるということだ。
占領軍は、情報をコントロールしていることを悟られないような巧妙なやり方で検閲をおこない、メディアを支配する情報戦を仕組んでいた。その結果、占領政策にとって都合の悪い出来事や情報は隠されたまま、いわばブラックホールのなかへ姿を消してしまった。
「戦後社会の原点」とみなされる時代であるにもかかわらず、多くの真実が欠落し、核心がぼやけたまま風化してしまったのである。
ところがここへ来て、思いがけず、戦後ゼロ年をめぐる新しい視野がもたらされようとしている。原動力のひとつは、機密資料の公開である。たとえば、2007年に機密解除された10万ページのCIA文書があり、150万点に達するGHQの検閲記録がある。A級戦犯に対するIPS(国際検察局)の尋問記録やアメリカ戦略爆撃調査団の調査報告も公開された。
こうした極秘文書を多くの証言とつきあわせていくと、驚くべき真実が続々と浮かび上がってくる。まず、時計の針を敗戦から3日後の1945年8月17日にあわせてみよう。
日本政府がつくった「性の防波堤」
この日、組閣された東久邇内閣の国務大臣に就任した近衛文麿がなによりも急いだことは何だったか。
(中略)
米兵による暴行事件は、8月30日にはじまり、RAAの営業によっても止むことがなかった。1945年11月中に発生した米兵の犯罪は、婦女暴行、強姦、盗み、おどし、たかりなど、554件に達している。報道が禁止されていたゆえ、一般に知られなかっただけなのである。
特に強姦事件や強盗事件が多かったのは、小町園に近い大森海岸であった。売春婦の紹介業を務めていた菅原道雄は、その理由をこう証言している。
「大森で、強盗・強姦事件が頻繁におきたのも慰安所と関係ありますね。タバコや洋服を『金にかえてくれ』といってくるヤツが多かったし、それもないヤツは強盗をしてまで女を抱く金を得ようとする。慰安所にはGIが行列をなしていてあぶれちゃうヤツがでるんですよ。そうなると、手あたりしだい、女とみると襲いかかるのです。
夜の八時ころだったでしょうか。大森から大森海岸へ行くまっ暗な道で女の人の悲鳴をきいたことがあります。たぶん素人の人でしょうが強姦されていたんです。私は一目散に逃げましたよ。だって、アメちゃんは刃物をもってましたからね」
RAAの組織と人脈から、占領終了後、赤線や基地売春が生まれた。国家がつくりだした巨大売春施設こそ、戦後の売春産業の源泉であったのである。
いまも残る「東京ブラックホール」
戦後ゼロ年のブラックホールに迷い込んだのは、国家の「いけにえ」となった女性ばかりではない。占領下の東京には、いたるところに、ブラックホールが存在していた。
あらたに発掘された映像からも、その痕跡がみつかる。たとえば、東京湾から引き揚げられた大量の金塊の映像。数兆円にもおよぶ日本軍の隠匿物資の一部である。もとはといえば、本土決戦のために軍が国民から徴用した物資であり、こうした莫大な財産は国民には返還されず、高級軍人や官僚など特権階級に横領されて、ヤミ市に横流しされていたのである。
戦後ゼロ年、飢餓やインフレは、戦争中より深刻だった。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたことだろう。
人々を苦しめた敗戦直後の地獄は、物資の隠匿に狂奔したエリートの不正によってもたらされたのである。その事実を、私たちの記憶のなかに、あらためて刻み込んでおかなくてはならない。
膨大なCIA文書から、戦後ゼロ年にどのような権力構造が生まれていたかを知ることもできる。たとえば、占領軍は、表向きは「日本を民主化し、軍国主義者を追放する」政策を推進したが、裏では大本営の参謀を戦犯の訴追から外し、対ソ諜報戦の手先にしていた。
米軍の諜報機関に囲い込まれた軍や特務機関の残党は、アメリカの後ろ盾を利用して密輸や謀略を重ね、密かに影響力を拡大していく。軍国主義の残党、ヤミ成金、官僚や政治家を問わず、占領軍に深く食い込んだ者だけが権力を確保し、利権を得た。
こうして戦後ゼロ年を出発点として、アメリカの秘密工作に積極的に協力した日本の支配層との合作で「世界最大の親米国家ニッポン」が造られていく。そのときできあがった権力構造のDNAは、いまも日本を支配している。
戦後ゼロ年は、戦前のしがらみを断ち切った年ではなく、むしろそれを温存し、戦争を推進した旧支配層を取り込んで、アメリカの国益に沿った日本社会の改造が開始された年だったのである。
『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』という本では、いままで視界から失われていた闇を見つめ、わたしたちの記憶の欠落を埋めていくことを試みた。復元された戦後ゼロ年の姿を現在の日本と重ね合わせれば、いまの日本を呪縛する仕掛けも見えてくるにちがいない。
bcとダメリカと露助の犯行はちゃんと残
っている。
誤魔化せると思うなよ?
なかったことにできると思うなよ?
今まで土下座も賠償もしなかったんだ、新
世界秩序が完全起動して立場が反転したら
どうなるかわかってんだろうな?
( ゜∀゜)・∵ブハ八ノヽ/ \!!!!!!!!
で、アメリカの公文書がリアル分析的中を
証明してくれてるようでつね。
記事を書いたヤツは全くわかってねぇマヌ
ケのようだが(縛w
GHQに擦り寄ったのは「日本の旧支配層」
じゃなくて日本の内部崩壊を画策したbc
ブラックのなりすまし寄生虫のクズ共、現
GHQサマナでつよ。
文科省とかで地祭りに上げられてる連中は
GHQサマナかそれにつながってる連中な
んでつよ。
莫大な金塊を横領して私物化し、そのカネ
を使ってやりたい放題やってきたたクズ共
は、全匹自誤苦の底に叩き落さなければな
らないんでつね。
わかり松。
( ゜∀゜)・∵ブハ八ノヽ/ \!!!!!!!!